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Chasing The Dream - 芝原 仁一郎

Written by Jin'ichoro Shibahara. 芝原仁一郎


シーズン 2007
2007年 5月5日(土) ベイカーズフィールド、カリフォルニア

サン・ディエゴの親戚宅に1週間滞在させてもらった。ブルに踏まれた脚をアイシングしながら、ここの書棚に山と在る本から何冊か選び出し、読みまくる毎日が続いた。活字、特に日本語に飢えていたのかもしれない。近所の公園を散歩し脚の具合を見て、乗るぶんには大丈夫だろうと判断した。スピードは遅いが、歩ける。

当日朝、その親戚がお弁当を作ってくれた。お弁当!! 自分でたまにランチと称してサンドイッチなどは作るけれど、これは正にお弁当。梅干ごはんと鶏のから揚げにコロッケ。それに白菜の浅漬け。こんなお弁当を作ってもらうのは高校生以来、だよな!? とにかく感激しつつ、彼女に感謝を述べて、ここを出た。ベイカーズフィールドまで約300マイル。そう遠くない。この日はサン・ディエゴで"Cinco de Mayo" というメキシカンのお祭りがある。そのまま"5月5日"という意味だけれど、この街からメキシコとの国境までは近い。映画"トラフィック"で映し出された情景がそこにある。フリーウェイは混みそうな予感がしたので、早めに出た。

途中、また道を間違えた。15号線から外れて北西に向かう出口で出そこない、次の出口で出てみたら、その道は15号線の裏道で、ほぼ並行して北東に向かう道だった。ただ、走ってみて知ったことだが、これがかつてのルート66だった。道路にそのロゴが記してある。結局そのまま進み、バーストウの手前でハイウェイ58に乗って西へ。休憩をとったトラックストップでお弁当をたいらげ、そこから約100マイル。このあたりは、U2のヨシュア・トゥリーとういうアルバムのジャケット写真に使われていたような光景がつづく。ロデオの始まる3時間前には着きそうだ。

ベイカーズフィールドのアリーナも比較的大きい。かなり早く着いたために、まだ閑散としている。しばらく芝生の上で横になり、休んだ。ロデオの開始は7:30pm。1時間前にエントリーを済ませ、出場者のリストを見るとユタから何人かやってくる。知っている名前もあった。ロデオを専門に撮る写真家がいる。そのままロデオ・フォトグラファーと呼ぶが、レイクサイドに来ていた彼がここにいた。あのライディングを撮っていたらしく説明つきで順に見せてくれた。

「最初の出だしはワールドチャンピオン並に、完璧!そのあとブルの上で泳ぎだして、沈んで、あとはご覧のとおり。」
「あんまり見たくないね、あとのほう(笑)。」
「去年テハチャピに来てたろ?そんときのもあるよ。」
「全部でいくら?」
「$20でいいよ?」
「じゃ、後で買うよ。」

結果、買い損ねた。

この日あたったブルは前回のMagic同様ソルトリヴァー・ロデオ社の#6078 Mo Time。スキップと話してみると、以前NFRやPBR World Finalsに出た"Prime Time"というブルの子供だという。良くないワケが無い。サイズとしては先週のMagicと同じくらい。ただ性質は違うらしい。ロデオが始まり、しばらくしてからダイナミック・ストレッチを始めたが、やはり右脚のふくらはぎは伸びない。筋肉やらなにやらが硬直していて、伸ばせない。右脚はそのままにしておいて、他を入念にやった。出番を待つ間、左側のデリヴァリーから出るブルの考えられる動きを全てイメージトレーニングの中で描き出した。"予測"しても、そのとおりにブルは動かない。彼がどう動くかは誰にも分からない。それなので予測はしない。ただ、頭の中で想像を越えるような動きも引き出しの中に入れておくと、リアクト(react)までの時間を多少縮められると思うからだ。

Mo Timeがシュートに入ってきた。ロープを巻いて、準備を整え、待つ。ユタでこの冬一緒に練習していたアレックスにロープを引くのを頼んだ。ここで、前回記したことがシュート内で起きた。Mo Timeも小さいブルだ。それに対して、ここのシュートは大きいブルにも対応できるようにか、幅も広く前後のスペースも広い。両足をおろし、ブルの体側につけ、ロージンを温めていると、彼が左右に身体を揺らして、私の右脚をはさんだままシュート内の壁に寄りかかってしまった。彼の体重のいくらかが、そのまま私の右脚にかかる。重い。身体をロープの上にもってくるまでまだ3インチくらいある。先に左足を前にずらしておいて、それから他のブルライダーたちがブルと壁との間にスペースを作ろうと上から彼を足で押してくれる。何とか空いたスペースで、右足をずらし、身体を前にもっていく。どうにか体勢を整えることが出来た。頷いて、GOサインを出す。最初のジャンプは小さかった。その次のジャンプが高くは無いが遠くに飛ぶような感じ。ここで着地するときに両脚を少し緩めて、前というか下というか、伸ばしてまたはさみ直そうとしたとき、左脚は動いてくれたが、右脚にはまったく力が入っていないのを感じた。はさめない。彼もそれを感じたのか、次の動作で左を向いて後ろ脚を右に振った。私の右脚はすでに外れていて、そこで地面に叩きつけられた。すぐに立ち上がることは出来なかったが、這うようにして自分が出たシュートに逃げ込んだ。シュートによじ登り、着替えもせずに残りの連中のライディングを見届けた。観客席は眩しかったが、頭の中では今の自分のライディングを振り返ることしか出来なかった。

スキップに挨拶を済ませ、ユタからの連中とも少し話し、また来週ロデオで会うことを確認し、別れた。夜10時を過ぎていた。この日はここからさらに100マイル北にあるフレズノに行くことになっていた。私の友人の家に、来週末まで泊まらせてもらう予定だ。彼は、私の親友の弟で、もう3年くらい会っていなかった。バナナとクッキーと水で胃を満たし、またフリーウェイへ、おそらくロデオカウボーイが最も多くの時間を過ごす場所へ戻った。

本来ならここで終わる話なのだが、続きがある。無事フレズノに着き、ベッドで眠ったあとの翌朝(日曜日)、起き上がろうとしたら、立てなかった。右足のつまさきが地面に触れただけで、ふくらはぎの部分が痛む。相変わらずの腫れ具合で、「悪化している」のが明らかだった。シャワーをなんとか浴びた後、この日一日、私はソファの友と化し、右足を心臓より高い位置に上げ、アイシングを施し、腫れを引かせようとした。

月曜日、友人の肩を借りてベッドから立ち上がり、前日過ごしたソファにたどり着く。歩、けない。ふくらはぎの内側から波紋のようにジワジワした痛みが膝から下に広がっていく。午後、友人の奥さんに調べてもらったクリニックへ、彼女に連れて行ってもらった。私の友人も子供と一緒にそこへ駆けつけてくれた。"病院"ではなく、クリニック。日本でいう"医院"で、アメリカの医療制度だと、かかる金額が全然違う。こちらは安くすむ。ようやく自分の順番が回ってきて、担当医師と話した。先ず言われたのが、傷口から黴菌が入っていること。皮膚の色で黄色い個所があるというのがその証拠らしい。続いてレントゲン。撮影後、レントゲン師の最初の一言が、

「今まで、脚骨折したことあるかい?」
「無いです。」
「一度も?」
「まったく無いです。」
「ホントに?」
「ホントに。」
「面白いなぁ、これ見ると、一度骨折していて、もう治り始めているよ。」
「ハ!?」

彼と、医師と、友人と私とで再度写真を見た。診断は"右脚ヒ骨骨折"。レイクサイドのときすでに折れており、その10日後に撮ったレントゲンだったために"治り始めている"という表現だったらしい。「どーりで、イテぇわけだ。」今は歩けないけど、先週は歩いていたのに、というのが実感だ。全治6週間。黒いブーツがあてがわれ、出てくるときには車椅子に乗せられ、医師と看護婦から「6週間安静にしていなさい。ブルライディングなんて絶対ダメだからね!分かっているわよね?」まるで、おふくろに叱られている気分だ。フレズノではPBRのイヴェントがあるし、隣町のクロヴィスではPRCAの大きな大会がある。彼女たちもブルライダーがどういう人間か知っているからだろう。事実、今週末の12日と13日、私もロデオを入れている。正直、へこんだ。

火曜日、PRCAに電話をし、今週末の2試合を棄権することを伝えた。医師の診断の下、その診断書をファックスで送信すれば、その棄権したロデオのエントリーフィーは払わないですむ。

来週、17日にユタを発ち日本へ一時帰国します。これは数ヶ月前から予定していたことなのですが、その前に、ここフレズノからソルトレイクまでどうやって帰るか?が問題です。しばらくここのソファの上で、考えます。

芝原仁一郎


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