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RODEO REPORT
本場アメリカのロデオ界の現状がよくわかる

ロデオ界は波乱万丈 (2004年11月20日)

続・ロデオ界は波乱万丈 (2005年3月24日)

前回のレポートではアメリカの2大ロデオ団体で華やかに行われている世界チャンピオン争奪戦についてお話した。今回は、その水面下において今まで繰り広げられてきた、ロデオや選手の将来に大きな影響を及ぼしかねない重要な抗争についてお話しよう。


タフ・ヘドマン(右)と
管理人(QP)

話は十数年前に遡る。1980年代後半から90年代始めのことだ。ブルライダー(ブルライディングの選手)達は、競技の危険度に比べて賞金額があまりに少ないことに不満を持ち、プロフェッショナル・ロデオ・カウボーイズ協会(PRCA)に対して異議を申し立てていた。彼らはブルライディングの賞金額を引き上げること、、他の競技を除いたブルライディングだけの競技会を設けて賞金獲得の機会を増やすことを求めた。この際、先頭に立ってPRCAとの交渉人となったのは3度の世界チャンピオンに輝いたタフ・ヘドマン(Tuff Hedeman)である。彼は当時、映画でも取り上げられて絶大な人気を誇っていた。しかし、PRCAは彼等をまともに相手にしようとはしなかったのである。業を煮やしたタフ・ヘドマンは、90年代始め、遂に選り優りのトップライダー20人と共に1000ドルづつ出し合ったお金を基金としてプロフェッショナル・ブル・ライダーズ(PBR)というブルライディングだけの団体を立ち上げる事となる(正確には有限会社を設立)。

当時も今もPRCAのビールスポンサーはCoorsであり、PRCAの人気のお陰でCoors Lightは当時全米一の売上を誇っていた。トップの座を奪おうと二位のBudweiserもスポンサーに加わろうとしたものの、Coorsは50年代から続けていたスポンサー。恩義もあってか、PRCAはビールスポンサーをBudweiserに変えようとはしなかった。そこでBudweiserはPBRの立ち上げをチャンスと見るや、大々的にPBRの筆頭スポンサーとなった。こうして、シーズンの冠スポンサーとして「BUD LIGHT杯」が生まれた。Budweiserの関連により、93年には年間僅か8大会だったが、数年で年間30大会以上まで成長し、更にマイナーリーグである「チャレンジャーツアー」も立ち上げるまでになった。

この間も、PRCAはPBRを脅威と見なさず軽視していた。天狗になりすぎていたのだ。何せ、西部の街はまだまだPRCAの大会を開催し、PBRの大会は主にニューヨークやロサンゼルス、アトランタといった大都市で行われていた。PBRの観客もPRCAとは異なり、牧場や家畜に全く関連のない都会の人々が主だった。しかし、数年前から観客の更なる増員を狙って、シャイアンやフォートワースといったPRCAの伝統的なロデオ開催地である西部の街々が、昼のロデオの後、夜にPBRの大会の主催を始めたのだ。となると、PRCAもさすがにPBRを無視出来なくなってしまった。PBRに対抗し、観客のブルライディングに対する欲望に答える為、PRCAは2年程前にようやくブルライディング・オンリーのイベント「EXTREME BULLS」を開催しだしたのだ。しかし、PRCAの有名なライダー達は賞金の高いPBRへ既に移っており、無名の新米選手が大半を占め、賞金額でも劣るEXTREME BULLSは伸び悩むこととなった。

これと同時期にPRCAやPBRとも異なる新しいブルライディング団体、チャンピオンシップ・ブル・ライディング(CBR)が誕生する。CBRは自己の会員制を持たず、PRCAとPBRに便乗して両団体のトップライダーを招待して大会を行う新しい形式の団体である。いずれの団体にも認められていなかったため、選手がCBRで獲得した賞金は世界チャンピオンシップには数えられなかったが、それなりの賞金を獲得できるとあって選手達にも人気が出た。

一方、PBRの誕生から連続11年間、会長としてPBRの顔を務めたのは他ならぬタフ・ヘドマンであったが、2003年にはPBRの方向性で理事会と隔たりが生じ、2003年後半にはタフ・ヘドマンが会長を辞任してしまう事態にまで発展した。11年間副会長を勤めているコディー・ランバートとは高校時代からの付き合いであったから、ランバートを置いて一人で繰り出すとは余程の衝突であったのだろう。

しかし、ここまで世界最高のブルライディング団体を育て上げたタフ・ヘドマンがタダで引き下がる訳がない。CBRに籍を移し、活動を再開したのだ。長年PBRのイベントとして開催されていた「タフ・ヘドマン・チャレンジ」のシリーズをCBRに移し、ヘドマンが深く係ってきた「ブルナンザ」のシリーズもヘドマンがPBRを離れるとPRCAの「EXTREME BULLS」に移った。PRCAとの交渉の後、2004年の12月20日にPRCAはCBRの認定大会である「タフ・ヘドマン・チャレンジ・シリーズ」を共同認定し、賞金もPRCAで世界ランキングに数えられると発表した。賞金の合計額は各大会後とに$100,000(約1千30万円)と多大なものであるに加え、ケーブルテレビで放映も決定済みでPRCAは認定をする以外何の努力も必要なかった。1ドルも出す必要なく、テレビに映され、更に選手達も喜ぶ−「タフ・ヘドマン・チャレンジ」はPRCAにとって大変オイシイ取り組みであった。2005年1月の初大会では18歳のルーキーがPRCAの大ロデオに匹敵する$35,250(約363万円)を勝ち取り、「タフ・ヘドマン・チャレンジ」は一躍選手達の注目を浴びた。

ヘドマンが辞任した直後、彼の後任として、PRCAの世界オールラウンドカウボーイに7度、ブルライディング世界チャンピオンに2度輝き、PBRでも創立者の一人として関わってきたタイ・マレーがPBRの会長に選ばれた。マレーの履歴は感銘を与えるものではあるものの、PBR創立以前から長年「タフ・ヘドマン・チャレンジ」など数多くのブルライディングイベントの開催をし、PBRの創立に血汗を流しPBRでも1995年に世界チャンピオンに輝いたタフ・ヘドマンと比べると、PBRでは世界チャンピオンに一歩及ばなかたタイ・マレーはいささか迫力にかける。

PBRにスター選手とスター牛を取られ、質的にもPBRに負けていたPRCAであるが、数々のロデオ家畜賃貸業者と深い脈を持つタフ・ヘドマンが再度加わったことによりこれも改善するであろう。タフ・ヘドマンはイベントプロデューサーの間でも人気が有り、彼のブルライディング・イベント開催に係る長年の知識、技術と脈が敵に回った今、PBRといえども懸念していることであろう。

PBRがヘドマン無しでも飛躍的成長を続けられるか、それともPRCAが驚異的な追い上げを見せるか。2団体の動きがこれから面白くなる。

--- その後、タフ・ヘドマンがCBRの会長に決まった。 

ロデオ界は波乱万丈 Vol.3 (2005年9月23日)

ロデオ界は波乱万丈 Vol.4 (2005年10月26日)

ロデオ界は波乱万丈 Vol.5 (2005年12月 2日)

ロデオ界は波乱万丈 Vol.6 (2006年12月 3日)


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